【サッカーと働く(第1回)】努力で縁をたぐり寄せた、毎日全力蹴球の人
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【サッカーと働く(第1回)】努力で縁をたぐり寄せた、毎日全力蹴球の人

SAMURAI BLUEの中の人
<はじめに>この企画はこんな思いで書いています

紹介

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スーパー営業マンが感銘を受けた「Jリーグ百年構想」

プレーしていたスポーツと言えば、アイスホッケーです。高校の時から遊びでスケートしていて、大学、社会人ではガチでやっていました。僕にとってサッカーは完全に”観るスポーツ”でしたね。天皇杯決勝、高校選手権決勝やトヨタカップ。代表戦はフランスワールドカップ予選から、チケットが手に入ればスタジアムにも行きました。ドーハの悲劇は大学生のときで、友人とみんなで集まってテレビで観て泣いたことが思い出に残っています。

大学卒業後は新卒で通信関係の会社に入り営業を担当。営業が大好きで、スーパー営業マン(笑)として、サラリーマン生活を楽しんでいましたね。
そんなとき、Jリーグの百年構想* が発表されて、衝撃を受けたんです。Jリーグが100年先のことまで考えている、サッカーを文化として根付かせようとしていることに、素晴らしいなと感銘をうけました。

それからサッカーの仕事に興味が湧き、サッカー界に入るにはどうしたら良いか、営業の合間にサッカー関連の人に話を聞いてまわりました。それでまず分かったことは、いわゆる普通の採用活動をしていないということ。今ではサッカー界も求人を出して人を募集しているけど、昔はだいぶ違いましたね。もうひとつは、自分に付加価値がないと入れない世界だなと。

ちょうど野茂英雄さんがアメリカのメジャーリーグでノーヒットノーランを達成し、中田英寿さんがイタリアに移籍して活躍している頃でした。日本のスポーツ選手が海外で成功しはじめているのを見て、語学や国際感覚を身に付けることが自分の付加価値になるかなと、日々営業しながら考えていました。
さらにスポーツマネジメントの修士という肩書も提げれば、サッカー界で仕事を得ることができるかもしれない。
27、8歳の頃、そんなふうに逆算して考え出した結論が、アメリカへの留学です。

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アメリカのスポーツ界で修行。300以上のチームに履歴書を送る


留学資金を貯めるために実家に戻り、働きながら勉強して、渡米。現地では半年語学学校に行ってから大学院に入り、スポーツマネジメントを学びました。勉強は本当に大変で、英語が分からないので授業は全部録音して、友人に簡単な単語でリフレーズしてもらったりしました。言語や将来への不安のストレスで円形脱毛症ができることも......。
自分の中期計画は、日本のサッカー界に入ること。夏休みには、アメリカサッカー協会でバイトをしてサッカーの経験を積んでいました。2002年のワールドカップでは休学をして日本に戻って、数カ月間大会の中継まわりの仕事をしたり、大学院で学びながらいっときも無駄にせずにサッカーの現場経験も積んでいった感じですね。

失うものもないので、アメリカサッカー協会には毎日ストーカーのように電話とメールでバイトをやらせてくれ! と頼み込んでいました。インターン先を探すときにはサッカーで働けるとは限らないから、野球もアメフトもバスケにも300チームくらいに履歴書を送りましたね。最後はメジャーリーグサッカーチームでインターンをして、そこで修士修了後もそのまま働けました。それもすべては日本のサッカー界に貢献するため。それがJFAなのか、Jリーグなのかクラブなのかは漠然としてましたけど、いつ日本に戻ろうかなぁなんて考えていました。アメリカはスポーツビジネスの経験を得るためにいる場所と捉えていましたね。

ついに日本のサッカー界へ。たぐり寄せた縁

現地のサッカーチームで働いていた2003年当時、中国で開催予定だった女子ワールドカップがSARSの影響でアメリカで開催されることになったんですね。日本女子代表、今でいうなでしこジャパンも出場するということで、そのときにアメリカサッカー協会が「まだアメリカにいる?」と連絡をくれて。1シーズン半続けたサッカーチームの仕事をスパっと辞めて、ワールドカップの組織委員会に入りました。そこで来米した日本女子代表チームのリエゾンオフィサー*  をやらせてもらいました。業務の傍ら、チームに帯同していたJFAの錚々たる要人たちに「日本のサッカー界で働くためにアメリカで経験を積んでいるんです!」と自分を売り込みました。その女子ワールドカップ期間中にU-20日本代表も合宿でアメリカに来ていたから、そこにも顔を出して挨拶と売り込みに行ったり。このとき31歳くらいで、ギラギラしてましたね(笑)。
でもその甲斐あって、UAEで開催されるFIFAワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)に出場する日本代表チームのメディアオフィサー* をやってみる?と声がかかりました。それですぐにUAEに行って、その遠征先のドバイのごはん屋さんで、JFAに来ないかというお話がありました。

でも、その時は生意気にもお断りをしました。
実はそのときに東京ヴェルディで働くことが決まっていたんです。2001年になでしこジャパンがアメリカに遠征の際に同時多発テロが起こって、僕はアメリカサッカー協会から派遣されて、なでしこのお手伝いをしていました。その時の関係者の紹介でヴェルディの仕事にもお声がけいただきました。

僕はJリーグの百年構想に感銘を受けて留学をした経緯もあるし、まずはJリーグのクラブから日本サッカーの発展に貢献したいと思いました。日本に戻り、ヴェルディでは3シーズン働きました。アメリカで培った語学力や経験も生かして国際的な仕事に携わりたいという思いが大きくなったとき、再びJFAに声を掛けてもらい、2006年に入局することになります。

「20年間、毎日が楽しい」

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入局からは、代表チーム部という日本代表チームに特化した部署で、08年まで北京オリンピックに出場するチームの総務* を担当しました。また同時にフットサル日本代表やアンダーカテゴリーのチーム総務もやりました。09年からは総務を卒業して全カテゴリーの代表チームの事務方の統括、それと日本代表の試合の対戦相手を決めるマッチメイクの担当もしました。14年に国際部に異動して部長として海外チームのキャンプの受け入れや海外への指導者派遣などをやりながら、当時JFA副会長だった現田嶋会長のFIFA理事選挙対策、選挙参謀のような業務にも携わらせてもらいました。17年から競技運営部に異動して、JFAが主催する全国大会や各カテゴリーの日本代表戦の運営を統括する立場です。

とにかくサッカーの仕事に携わりたい、サッカーで日本を元気にしたい、サッカーを通じて日本にスポーツ文化を根付かせたいという考えが常にベースにあるので、20年間毎日「楽しい、嬉しい」の連続です。
もちろん仕事の成果が目に見える形で現れれば嬉しいです。代表チーム部ではチームの勝利につながることは何でもやるという毎日で、自分の仕事が勝利に貢献できたときは、何より嬉しかった。特に2011年のアジアカップ決勝での勝利の瞬間、李忠成選手が長友選手のパスをボレーで決めた得点シーンを今でもスローモーションで覚えているほど格別です。チームのための色々な仕事があり.....チームの一員として優勝の瞬間に立ち会えた、優勝できたということには特別な気持ちがありますね。
国際部時代は、世界最大の国際スポーツ連盟であるFIFA、そこで世界のサッカーを動かす理事の当選に貢献できたのは心から嬉しかったですし、競技運営部では満員のスタジアムの後押しで代表チームが勝利しサポーターと喜びを分かち合う様子や、国内競技会に参加してくれた人が本当に楽しそうにプレーしているのを見たりするのも嬉しいことのひとつです。

差し込み

ジャージに着替えて芝を植えた?

どの業務にも楽しさと苦労がセット。何の仕事でもそうでしょうけど、楽な仕事はないです。でも落ち込む時間も余裕もないし、投げ出すわけにもいかない。僕が心がけているのは、そんな状況に押し潰される前に、先に進む方を考えて手を打つことです。

そうやっていつもなんとか、必死に乗り越えてしまうので、今思えば苦労というものはないです。それでもあの時苦労したなと思うのは、これはもう時効と思ってお話するのだけど......14年のブラジルワールドカップ、代表チーム部で日本代表の統括をしていたときのことです。

チームはまもなく事前キャンプ地に入る予定なのに、なんだか担当者から現地の様子が届かなくなって、連絡もつきにくい。心配になって僕はチームより一足先にブラジル入りしました。そうしたらなんと、工事が滞っていて、選手の宿舎の部屋もできていない。もうチームは壮行試合も終えて、2週間後にここに入ってくるというタイミングで…。
そこでまず作業員みんなを集めて、「ここはサッカー日本代表のキャンプ地で、あなたたちはその宿舎を作っているんです!」と演説しました。2週間後に選手が入ってくると聞いてみんな驚いていました。日雇いで現場にきていて、自分たちが何を作っているのかも、納期も知らされていなかったんですね。

僕も初日はスーツを着て、ああだこうだ喚き散らしていたんだけど、途中からはもうジャージでみんなと芝を植えたり、エレベーター取り付けたり、家具を運び込んだりと、JFAの国際委員や関連会社の方々の力も借りながら、言葉の通じないブラジル人と一緒に工事をしました。士気を高めるために「ジャパンナイト」と銘打ってカレーと豚汁を手作りして振る舞ったりもして....。それでなんとか最終的には素晴らしい施設が完成しましたが、あれは大変でした。

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最近ではコロナ禍での試合、大会対応に苦労しました。
これまでに誰も経験したことのない状況で、どうしたら良いか本当に困ってしまった感じです。予選はやらなければならない、でも外国の方の入国が認められていない状況。入国者のバブルを作って試合に漕ぎつけても、来日チームに陽性者が出る。対戦国の入国が試合に間に合わない......、本当に色々なことがありました。部員全員が大変だったと思います。みんな本当によく頑張ってくれました。

好きなことを仕事にしちゃえば良い

僕の場合は「サッカーのために働きたい」「すべては日本サッカーのために」と考えれば苦労や悩みは吹き飛びます。例えばこの期間に試合ができないと代表の強化ができない。それによる日本サッカー界全体への影響を考えると、なんとかしなくてはいけない! と。乗り越える原動力は日本サッカーのためという思いです。

人それぞれ、大事なものや仕事に対するモチベーションは違います。でも、スポーツは筋書きのないドラマ。勝つか負けるかわからないけれど、勝つことを信じて人々が夢をみる、その夢を提供する仕事です。そう考えるとやっぱり「サッカーがすき、サッカーのために」という気持ちは大切です。
それと、サッカー界はボランティアで携わってくれる皆さんに支えられている部分がある。彼らには本当に頭が上がりません。僕たちは好きなことを仕事にしてお給料を頂いているのだから、しんどいなんて言っていられないです。

今もし何の仕事をしたいか考えている人がいたら、「自分がすきなことを仕事にしちゃえば良い」です。そうしたら仕事に情熱を傾けられるし、なんとかしたいと思うもの。好きを仕事にする、こんなに素晴らしいことはないということを伝えたい。
もちろん苦労することはあるけど、好きという気持ちがあると乗り越えられる。この状況を乗り越えないと、克服しないと次に進めない!という状況で、逃げ出してしまうようであればそんなに好きではないということだと思います。

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今後やりたいこと

組織人としては、JFAの掲げる目標*に向かって力を注ぎたい。
個人的には、日本サッカーの国際的なプレゼンスを高めたいです。代表チームが勝つということだけでなくて、試合や大会を運営する面でもです。例えば東京オリンピックは紆余曲折ありましたけど、コロナ禍で運営をやりきった、完遂したということで国際的な日本のプレゼンスは上がったという見方もあります。そういうふうに、ワールドカップで勝つことだけでない広い意味で、日本サッカーの価値、プレゼンスを高めていきたいです。


<注釈>
* Jリーグ百年構想 詳細
* チームリエゾンオフィサー: 入国した外国チームに帯同し、通訳兼滞在に必要な物事の手配や、チームからの要望に対応し無事に送り出すまでを担う。
* チームメディアオフィサー:メディア対応(インタビュー取材や記者会見など)、チームの情報発信を担う。
* チーム総務:円滑なチーム運営のためのあらゆる手配や処理、調整など幅広くかつ必要不可欠な業務を担う。
* JFAの目標 詳細


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SAMURAI BLUEの中の人
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