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【サッカーと働く】第3回 52人を導く44歳の本部長は、スポーツのチカラを信じる「気概のある心配性」

はじめに この連載はこんな思いでまとめています

第2回で紹介した津村尚樹氏が「JFAに入ってはじめての遠征で、お互いに右も左も分からない中助け合った、JFA唯一の友人」と評した、マーケティング本部長の髙埜尚人氏に話を聞きました。

JFAに入るきっかけは、取引先としての謝罪

大学卒業後、人材紹介会社で働いていました。そこで3年目のときに担当していたクライアントのひとつがJFAでした。あるときにJFAから内定をもらった推薦者が辞退を申し出て、自分は担当者として謝罪に行くことに。人を採用するには時間もお金もかかりますから、JFAの当時の事務局長から辞退の責任を問われたんです。そこで不意に口をついて出たのが、「代わりに私が御団体を受けます」という言葉でした。必死の一言です。相当追い詰められていたんだと思います(笑)。

でも、その場しのぎで言った言葉ではなく、スポーツを自分の生業にしたいという思いはずっとあったんです。

現在はサッカーの仕事をしていますが、実はサッカーという競技はやってきませんでした(笑)。子どもの頃から野球、バスケットボール、バレーボール、アメリカンフットボールと様々な団体スポーツをプレーしてきて、自分はスポーツからコミュニケーションスキルや言語化能力、チャレンジ精神、規律、思いやりなど様々な生きる術を学んだと思っています。
それと小学生の時にフランスに少しだけ住んでいた時期があって、海外での経験から自分は「日本人であること」に誇りをもっていました。だからスポーツという素晴らしいツールを通じて、魅力的な日本人がもっともっと増えて欲しい、スポーツを通じた次世代育成の仕事に携わりたいとずっと考えていました。

そういう思いがあったからこそ口をついた「御団体を受けます」。実際に面接を受けさせてもらえることになり、人生の転機になるかもしれないと半ば期待していました。でも結果は残念ながら不採用。英語での面接もあって「語学力が足りない」と、撃沈しました。
語学はもともと自信がなく逃げている自覚もあったので、それを突きつけられて悔しかった。だけど同時に、英語を学ぶ良い機会だとも思いました。そこで「もう一回受けさせて欲しい」と交渉したところ、半年だけ待ってくれることになったんです。

チャンスを無駄にはできないと、勤めていた会社をすぐに辞めて、カナダのバンクーバーに半年間、語学留学に行きました。そして、帰国後に再び採用試験を受けてなんとか内定をもらうことができ、2006年の6月に入局しました。28歳のときです。

バンクーバー留学時代に友人と。

「大変なことほどやりがいが大きい」と学んだ国際試合運営グループでの仕事

JFAでのスタートは事業部 国際試合運営グループというところでした。日本代表の国際試合の運営*が主な業務で、5年間在籍しました。この頃で特に印象に残っているのは、2010年に行われた南アフリカFIFAワールドカップで担当した「チームセキュリティオフィサー」の仕事です。これはなかなか大変な業務でした。

「チームセキュリティオフィサー」は、チームが安心して日々のトレーニングや試合を行えるよう、チームの安全面を担う仕事です。競技以外でもチームスタッフは、用具や食事、渡航、医療面や広報など様々な形でサポートしていますが、安全はなにより全てのベースになるもの。安全があってこそ、チームは良い準備ができ、良い準備が良いパフォーマンスにつながる、その根本の部分を支える役割でした。
ただ、南アフリカは日本ほど治安が良くないこともあり、日本の警察庁や外務省、FIFA(国際サッカー連盟)や南アフリカ現地の警察とやりとりをしながら、日本代表チームの動線を考えたり、地元警察の警備ポジションを決めたりと、大会前から様々な調整をしました。
各国のセキュリティオフィサーが警察出身者やセキュリティのプロであるのに対し、セキュリティの知識も経験も乏しく、さらに語学も堪能ではない自分がチームの安全を一手に引き受ける責任はとても重く、当然不安でした。時に自分の体格の倍くらいある外国人に対峙しなければならずビビるときもありましたが(笑)、チームの安全だけを最優先に、自分に何ができるか、何を求められているかを常に考えて、そしてナレッジを持つ人と密にコミュニケーションを取り、他のチームスタッフと連携することでなんとか乗り越えることができました。

2010年ワールドカップの事前キャンプ地(スイス)と現地(南アフリカ)での思い出。一番右は前回登場の津村氏との坊主2ショット!

2011年のチャリティーマッチも最も印象に残っている仕事のひとつです。3月11日、東日本大震災があり3月末に静岡と東京で予定していた日本代表戦が中止に。しかし中止とともに、日本代表対Jリーグ選抜の「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」を大阪で開催することを発表しました。自分はその試合の運営を担当しました。
震災から試合まで、約2週間しかありません。こんなときにサッカーをやっていて良いのだろうかという葛藤もありました。でも「サッカーだからこそできることを」と切り替え、電力不足の影響がなかった大阪で、被災されたみなさんに勇気や希望、感動をお届けできるようにと実施することに。通常は数ヶ月かかる試合の準備をほとんど寝ずに2週間でやりきったのは大変だったけれど、思い返せばとても印象的でやりがいのある仕事でした。もう二度とできませんが(笑)。
日本代表の選手もJリーグ選抜の選手もみな率先して募金活動を行ってくれましたし、選手も裏方もファンサポーターも立場を超えて一つになって試合を作り上げた、そんな感覚の残った試合でした。

3月29日に大阪・長居スタジアムで実施。4万人超のお客様にお越しいただき、スタジアムが一丸となって被災地にエールを送りました。

ほかにも大変だったこと、しんどかったことは?と聞かれれば、いっぱいあります。ずっとしんどいです(笑)。でも思い返してみると、大変なことと、嬉しいことややりがいはセットだなって思うんです。大変だったからこそ今でも鮮明に覚えているし、印象的で、自分の自信に繋がります。また、大変なことは一人では絶対に成し遂げられません。仲間と取り組むことで信頼が築かれ、大きなことを成し遂げられる。自信と信頼の上に新たなチャレンジを積み上げる、きっとリタイアするまでその繰り返しなんだと思います。

マーケティングや広報、海外研修など、16年間でさまざまな経験を積む

2011年、組織変更で生まれたマーケティング部に異動しました。立ち上がったばかりでメンバーは6人のみ。当時は日本代表や国内大会のスポンサーシップから、放送権や映像資産を扱う放送事業、グッズ企画・制作等のマーチャンダイジングに至るまで全てを経験させてもらいました。それまでマーケティングの「マ」の字も知らない自分が、いちから色々なことを学ばせてもらえ、いまの自分のベースを築けた非常に重要な時期だと思っています。

2013年10月~2014年3月の半年間は、文部科学省の「国際的スポーツ人材養成プログラム」でヨーロッパへ研修に行ったことも。日本のスポーツの国際競技力の向上を目的に、競技者や指導者はもちろん、スポーツ団体の情報収集・発信力を高めるべく、海外のノウハウを学ぶ研修でした。自分は主にマーケティングを学ぶために、イングランド、スペイン、ドイツ、スイスに赴き、各国のサッカー協会やプロリーグ、クラブチームをめぐりました。調査や視察、そこで働く人へのインタビューを通して、多くのことを学びました。英語が聞き取れずたくさん脇汗もかきましたが(笑)、本当に良い経験をたくさんさせてもらいました。
学んだことを日本にインストールするのはまだまだ道半ばですが、その時にお世話になったドイツサッカー連盟の人と先日もオンライン会議をしたり、人の繋がりが今も大きな財産となっています。

スペインサッカー連盟でお世話になったみなさん。右はスイスの欧州サッカー連盟(UEFA)でUEFAチャンピオンズリーグ優勝チームに授与されるカップと撮影。

2014年12年にはコミュニケーション部に配属されました。チームの情報発信を担う広報として、リオデジャネイロオリンピックを目指す23歳以下の日本代表チームをメインに、SAMURAI BLUE(サッカー日本代表)をサブで担当。2チームに帯同していたので、2015年は1年の約半分が出張でした。たまに自分がどこに遠征しているかわからなくなったり、当時生まれた次男に父親と認識されないのではと不安を覚えたりする日々を過ごしていました(笑)。
でも、日本を代表して世界大会で戦うチームを間近で支える経験は何ものにも代え難いものとなりました。

AFCU-23選手権カタール2016決勝で韓国に逆転勝ちして優勝、手倉森誠監督と固い握手。右はリオデジャネイロオリンピックの遠征中にチームで誕生日を祝って貰ったときの1枚。
リオデジャネイロオリンピックで選手、スタッフと記念撮影。


「ブランディング」業務は今の仕事の礎

そして2016年10月にマーケティング部へ戻ります。日本代表のスポンサーシップを主に担当していました。

2016~2017年にかけて担当したブランディング業務もやりがいのある、そして今に繋がる仕事です。ひとことで言うと「サッカーをもっとみんなに選んでもらう、好きになってもらう」ために、JFAという組織のイメージをポジティブに統一していく、とても大事な業務でした。
JFAのイメージを形づくるものは何か。それは単なるロゴの話ではなく、JFAが日々運営する大会や事業から職員の行動・言動まで全ての要素が影響を及ぼします。JFAが大切にする価値観、世の中にJFAが提供できる価値が何なのかを再整理して、JFAブランドの源泉となるもの、“JFAバリュー”をまず策定しました。それから、サッカーと世の中の接点、JFAを想起させるロゴや大会名などを整えました。ブランドの源泉と、世の中との接点、その2つが揃って初めて「JFAって◯◯だよね」とブランドが統一されていきます。

2017年11月に発表した「ビジュアル・アイデンティティー」。発表会の様子はこちらで詳しく見られます

これまで使ってきたロゴや大会名を個別に見れば、そこにはすでに伝統やブランドが蓄積されていて、関係者も担当者もそれに思い入れがある。一方でJFA全体で見ると、JFAとあらゆる事業との関係性がきちんと視覚化されていませんでした。JFAブランドを統一するためには、JFA全体のブランディングから見ると「例え歴史と伝統のあるものでも変えるべき」だと、各担当者と何度も何度も、時に半泣きになりながら議論を交わしました(笑)。こうして、一緒に働く仲間にもその意義を理解してもらうことも大事な仕事の一部でした。

ブランディングの仕事は、成果としては見えにくいのだけれど…、でもその本質がわかったときにとてもやりがいがある仕事だと思いました。
JFAのブランド力は、JFAの重要な経営資源のひとつ。この価値が高ければ高いほど、多くのひとにサッカーを選んでもらえて、そして関係する企業が投資してくれる金額も増えていきます。だからこのブランディングの仕事は、今のマーケティング本部の業務にも通じていると思っています。

日本でのスポーツの価値向上を目指して、気概を持って仕事に取り組む

16年間、様々な経験をさせてもらって、今はマーケティング本部を統括する立場になりました。マーケティング部とプロモーション部の2部署、8グループからなる本部のミッションは、「世の中の熱量を創出して、その熱量を経済的、社会的価値に変換する」こと。そして、共同・共創してくださるキリンさん・アディダスさんをはじめとするパートナー企業、放送局、ライセンシー、その他多くの外部パートナーへ価値を還元すること。
このミッションを成し遂げるために、メンバーが働きがいを感じられる、効率よく効果的にパフォーマンスを発揮できる環境を準備することが本部長の使命です。

マーケティング本部は、JFAが行う公益事業、サッカーの強化・育成・普及などの全ての活動へ再投資するための原資を獲得する役割を担っています。
これまではパートナー企業のロゴが露出することに価値があり、対価を頂けていました。でも今は、原資に繋がる価値を測る指標が変化、複雑化していますし、パートナー企業側のニーズも多様化しています。
時代やパートナー企業によって求められるものが変わるので、自分たちはJFAの資産の何を価値として感じてもらえるのか、常に考えなくてはなりません。とても難しくて大変なことですが、だからこそチャレンジングです。答えが分からないものに対するワクワク感みたいなものもあります。
ありがたいことに、他のスポーツ団体の方がこの変化の時代にサッカーはどうするのだろうと、注目してくれることもあります。サッカーだけでなく、日本のスポーツ界全体を盛り上げていくという気概をもって、自分たちのこれからを考えて形にしていく仕事にやりがいを感じています。

2019年、チームメンバーたちと日本代表ユニフォームを着てマラソン大会に出場したときの1枚。

今の立場になってからは特に、自分個人としての達成感とかはあまりなくて、JFAが、サッカー界が、いかに良い方向に行くかみたいなところをとても大切に思えるようになりました。少し綺麗事に聞こえるかも知れませんが(笑)。

スポーツには確実にチカラがあります。ワールドカップで日本全体がひとつになって熱狂する、地域で子どもからお爺ちゃんお婆ちゃんまでが笑顔になれる、それはスポーツにチカラがあるからこそ。でも、そのチカラは測り難いものです。そういう測りにくい価値を可視化して、個人からも法人からもさらに価値を感じて貰え、そこにお金が流れてくる仕組みを作りたい。それはサッカー自体の発展にも繋がるし、他のスポーツにも生かせるはずです。そして、日本でのスポーツのステータスをあげることで、次世代を担う子どもたちが一人でも多く、スポーツを通じて魅力的な生き方を見つけて欲しいと考えています。

*注釈 国際試合の運営担当
サッカー競技の運営から対戦国の受け入れ、ファンサポーター対応、演出進行、ファンサービス、セキュリティ等、試合にかかわる様々な業務を担当する