【あの頃、わたしはサッカーに夢中だった】第2回「sio」オーナーシェフ・鳥羽周作さん
サッカーとの思い出は人それぞれ。
プレーしていた時のこと、当たり前に見ていた風景、その時感じたことのひとつひとつにドラマがあります。この企画では、各界で活躍する方にご自身のサッカーとの繋がりをお話しいただくことで、さまざまな角度から見える「サッカーの景色」をお伝えしていきます。
今回、お話を伺ったのは代々木上原のレストラン「sio」オーナーシェフの鳥羽周作さん。
小学生から大学生、さらには社会人になってからもサッカーを続け、Jリーグの横浜FCの練習に参加したこともある鳥羽さんですが、選手になることを諦めた後、32歳で料理人の世界に飛び込みました。サッカーを続けてこられたのも、やめる決断をしたのもある選手との出会いがきっかけだったという鳥羽さんに、これまでのサッカーヒストリーを伺いました。
忘れられない、カズさんからの「待ってるよ」。
喘息で体が弱かった小学校2年生のときに、何かスポーツをやらせたいというという両親の意向と、周りの友達がみんなサッカーをやっていたことが重なり、地元のサッカー少年団に入りました。合宿に車を出してくれたり、試合のビデオを撮ってくれたりと、家族は少年団の活動にとても協力的だったのを覚えています。小学校5年生のときに静岡で大会があり、そのときに三浦知良選手がたまたま来ていて、一緒にお弁当を食べたんですね。当時クロアチアでプレーしていて、日本に帰ってきたばかりのカズさんはめちゃくちゃかっこよかった。帽子にサインしてもらった際、「いつかカズさんと一緒にプレーしたいです」と伝えたところ、カズさんが「待ってるよ」と一言。その言葉を胸に、それからずっとサッカーを続けてきました。
その後、地元の中学校に進み、高校はサッカーの名門、浦和南高校に進学。プロを目指して、地獄のような練習をひたすら続けていました。一方で、高校卒業後に進学した東北の強豪校、仙台大学では、試合に出られない日々が続き、遊んでしまうなど「不毛の時代」だったと思います。大学卒業後は、まだサッカー選手を目指したいという想いで、比較的時間が作りやすい小学校の先生になり、子どもたちにサッカーを教えることもありました。
※高校時代最後の試合前のひとコマ。用具にもこだわりがあり、名古屋のショップ「サントス」からスパイクを取り寄せたりしていた。
就職後も社会人リーグで平日は週4回の練習、土日はリーグ戦という生活を続ける中で、25歳くらいのとき、大野敏隆さんという同い年のプロサッカー選手のスルーパスとボディコントロールを見て、その時に「こんな人がいるならプロになれない」ことを痛感してしまって。彼のセンスに脱帽し、サッカーをやめることを決意しました。
そこで何をしようと思ったときに、刺激を受けたのは当時日本代表として活躍していた中田英寿さんの姿。自分も他の業種で活躍して、何かを極めることで中田英寿さんと肩を並べて話したい、会いたいと思い、料理が好きだったのでレストランの門をたたきました。
料理もサッカーも想像力と感覚が大切。
今振り返ると、「自分がどのチームのユニフォームを着て、どの試合に出ている」かが、明確に映像として頭の中に浮かんでいなかったから、サッカー選手になるという夢が叶えられなかったのだと思います。一方で、中田英寿さんと肩を並べて話をすると思った時、自分が料理人として、コック帽をかぶっている姿がリアルに想像できた。その自信があったので、素人なのに有名店の門を叩いて修行させてほしいと土下座し、失敗を恐れずにチャレンジできたのかなと。料理人になるための修行時代は、朝から晩まで働いて睡眠時間3時間、というような日々を送っていましたが、サッカーの鬼のような練習で培った根性があったからこそ、乗り越えられたと思っています。
また、サッカーでは「こういう時にこういう状況でパスしたらいけない」と経験から感覚を取り入れられる人が天才と言われるように、料理でも想像力と感覚が大事ですね。私は試作をしないのですが、それは自分の経験からだいたいどんな味になるかがわかっているからです。今の感覚でサッカーをやっていたら日本代表になれた気がするのですが、なれないからこそ人生は面白い。ちなみに中田英寿さんは何度かお店に来てくれて、そこは夢が叶いました。自分が料理人になったきっかけを話したら中田さんは笑っていましたね。
今後チャレンジしたいのは、食のプラットフォームを作ること。例えば料理人がチームとなり、オファーを頂いてチームで仕事を受けるような仕組みや、料理人が活躍できる土台を整えていきたいです。AppleやGoogleのようなプラットフォーム、あるいは食のJFAみたいなものかもしれません(笑)。料理の基準値を上げ、食べることから幸せの分母を増やしていけたらと思っています。