【永井玲衣さん、サッカー通への道。】第1回 手始めに、「サッカー」と検索してみる。
仕事であれ趣味であれ、自分には縁遠いと思っていたことでも、思い切って触れてみると、意外な面白さを発見することがあります。それはきっと、サッカー観戦も同じ。一歩踏み出してみれば、おのずと自己流の楽しみ方が見つかるかもしれません。
「試合を観たことがないどころか、ルールすらも自信がない……」。そう話すのは、日常生活に潜む”あたりまえ”に一歩立ち止まって考える「哲学」を切り口にした執筆活動でも人気の哲学研究者・永井玲衣さん。今回は、幼少期から現在までもっぱらスポーツに疎い人生を送ってきた彼女に初めての試合観戦を体験してもらい、その紆余曲折を全4回のエッセイで綴ってもらいます。まずは1回目。サッカー通を目指して彼女が開いたのは、研究者らしく、なんと”学術論文”。果たしてサッカーの面白さに目覚める日は来るのでしょうか——。
自分の身体と息が合わない。
適切な動きでボールをキャッチしたり、適切な音程で声を出したり、適切な仕方でものを掴んだりすることができない。以前、研究室で作業をしているとき、机の上に白い枝が落ちていることにびっくりしたことがあった。流木のような白い枝がなぜこんなところに、と目を凝らすと、自分の片腕だった。わたしと身体が、極度に切り離されているのだろう。
ただでさえ身体と馬が合わないのに、そこにボールという第三者が参加してくるとなると、物事はより厄介になる。全くの他者であるボールをきっかけに、身体と協力することができればどんなにいいかと思うが、誰とも分かりあえずに時間だけが過ぎていく。
だからか、スポーツ全般に興味をもったことがほとんどない。好きなスポーツを聞かれれば、必ず「将棋」と答えてきた。将棋はスポーツじゃないよ、と友だちに指摘され、いやこれはスポーツだからなどと言い返し、無意味に険悪なムードになったこともある。
そんな中で、サッカーについて書く機会をいただけた。サッカー。ルールも知らず、試合すら見たことがなかったことに気がつく。初対面だ。初対面はいつも緊張する。おそるおそる、CiNiiという学術論文を検索できるサービスで「サッカー」と打ち込み、いくつか論文を読んだあと、そうじゃないだろう、と自分で気がつく。代わりに、Googleでサッカーというものがそもそもどういうものなのかを調べる。ヒットしたページにこう書いてある。
手の使用が極端に制限されているフットボール競技(蹴球)。
魅力的な文だ。そう、サッカーは手を使ってはいけないのだった。なぜだと思って、サッカーの歴史をまた長い時間をかけて読んでしまう。
ボールという第三者を交えるだけでなく、サッカーは敵チームをかわしながら、走りながら、蹴りながら、つなげながら、ゴールを目指しながらプレーするという。手が使えないのに、やることが多すぎる。よくよく考えてみると、なんて面白いルールなんだろう。
サッカー選手は縦横無尽に広いスタジアムを駆け回り、身体を駆使して、ボールと共に輝いている。だが、手だけが使えない。なんというもどかしさ! 何かを禁止するルールは他のスポーツにもたくさんあるが、手の使用を極端に制限するというシンプルなルールは、サッカーをより魅力的にしている。
結局のところ、サッカーに関する文献ばかりを読んで日が暮れてしまった。わたしはこういうところがある。動画ですらサッカーの試合を見るのは初めてなので、緊張しているのだ。そんな中で、ふと記憶がよみがえる。わたしはサッカーをしたことがあったのだ。
あれは小学生のころ。体育の授業で、一回だけサッカーをした。あれが生涯でたった一度のサッカー体験だった。笛がびーっと吹かれて、友だちがみんなボールを追いかけて走り出す。どっちのゴールにボールを入れるべきかもよくわからず、わたしはよたよたと、同じゼッケンの色をした友だちを追いかけていた。
気がつくと試合は終了していて、何の役にも立っていないわたしは、誰よりも息が切れていた。先生がわたしに近づいてきて、眉間にシワを寄せ「あなたは、いい場所にはいつもいるんだがなあ」と言った。たしかにわたしの脛や腿にはたびたび、バシッという強い音でボールがぶつかってきた。「ちょうどいいポイント」にわたしがいつもいるのだろう。
「いい場所」って何だろう、とそのときわたしは脚をさすりながら思った。これから再生する試合動画を前にして、わたしはまた同じ問いを頭の中で繰り返している。